焼け跡とみずたまり

牧場王やら色々

『たいようのマキバオー』が描く夢と選択、そして後悔

👺<流行に乗るのが遅い

 

某マ娘アニメ及びアプリリリースに伴いオタクの競馬デビューが相次いでいるようで、(DMMのセールも追い風となり)競馬マンガの先駆者であるマキバオーシリーズへの注目度も上がりつつあります。この熱が冷めないうちに、改めてマキバオーシリーズ、とりわけ『たいよう』の魅力はどこにあるかを語ろうと思います。(特記ない限り『たいよう』と『W』は区別しないものとします)(地方競馬の現実とか、そういう部分は良く知らないので今回はスルーします)

 あ、一応ネタバレ注意です。

 

 

 

 

近代的自我の目覚めを描くスポ根

 

(推奨BGM。別ジャンルのタイアップ曲ですが、通じるものがあるので) 

 

「何のために走るのか?」というテーマは『たいよう』全体で描かれるものであり、本作に『みどり』と異なる魅力を与えるものです。『みどり』の登場馬の多くが「当初は目的があって戦っていたのが、強力なライバルと出会ったことで勝つこと自体を目指すようになる」という道筋を辿るのに対し、『たいよう』ではそもそもの目的探しを丁寧に描写しているのが特徴的です。主人公・ヒノデマキバオー=文太は与えられた役割(客寄せパンダとして生きること)を捨てて勝利を望むようになり、親友との出会いと別れを経て、自分の原点(思い切り走ること)と向き合います。

 

アイデンティティ確立・与えられた役割からの解放は古今東西の作品で描かれていますが、近年のポリコレ的文脈にも繋がるものでもあります。敷かれたレールを突っ走るのが『みどり』の魅力とするならば、文太がどの道を選ぶか・どこへ向かうかを見届けることが『たいよう』を読む醍醐味と言えるでしょう。

 

こういった要素の集大成だと思うのが、14巻冒頭(週刊154馬)の「行きたい道を選ぶなら自分は背中を押す」と伝えるシーンです。二人の友情というのもそうですが、今まで大人たちに流されてきた彼らが、(大人を振り回してでも)自己決定をした、というのが尊い(たっとい)と思うんですが、どうでしょう?

 

宣伝は大事。 

 

 

 

束縛の持つ力

 

しかし、W4巻以降「その選択は正しかったのか」「選んだ先に望む未来はあったのか」という問題提起が何度かなされます。9巻のカスケードの話にも繋がってきますが、自分が満足できたとしても客観的には無価値に、それどころか大損害にしか見えない訳です。敷かれたレールから外れるということは、レールの先を否定する行為であって、望む未来を担保するものではない訳です。

 

更にW14巻では「選択肢=自由を与えること自体、競走馬たちには無益なのではないか?」というアンチテーゼすら掲げられています。面白いことに、このアンチテーゼが主人公達の強さのカギでもあることが、序盤からハッキリと提示されているのです。束縛からフラストレーションが生まれ、爆発力・ハングリー精神になる…という流れは、文太の初勝利でも黒潮ダービーでも、そしてアマゾンスピリットでも描かれていますから、読者が否定しにくいポイントなのです。キングアナコンダのように、大人の事情に巻き込まれたことで勝つ以外の選択肢を失う者もいます。自由は無価値なのでしょうか?

 

 

真に自由であることとは

 

 自由の真価は最終盤でようやく明示されます。ファムファタール、そして文太が己の境遇を振り返り、自分が自由であったことで様々なことを経験できたと言います。

言われてみればオレは刺激に恵まれていたにゃ 

いろんなところでいろんなものを経験してきた 

オレは自由だったにゃ

出典:つの丸たいようのマキバオーW』18巻 P125より

私が思うに、自由であることの意義とは、文太にあってムスターヴェルクになかったものとは、他者との交流です横綱と出会い、モッコスや九州のことを知り、アマゾンやバスターと戦い、そしてフィールオーライと走ったことで、自分にはなかったものを獲得し、想いを新たにするのです。そして、培われた想いや願いがダイナスティら後輩を動かし、受け継がれていくのです。望んだ結果ではなく、未知のものを経験することに選択・自由の価値があるのです。

 

言い換えれば、『たいようのマキバオー』は「自分になかったものを他者との出会いで埋めていくストーリー」なのです。急に卑猥な感じになったな そして、「出会いが出会いを生み、ふれあいの中で想いが(時間を超えて)引き継がれる」ということが『みどり』と一線を画す点なのではないでしょうか。『みどり』最終回では挑戦し続けることが描かれていますが、『たいよう』は歩みを止めるまでを描いているところも対照的です。

 

 

それでも拭えない過去

 

 そうは言っても、W3巻以前とW4巻以降では世界に大きな溝ができてしまった訳で、各々が(読者も)どうにか心の穴を埋めるべく奔走するようになります。ここまでは文太の歩みについて語ってきましたが、今回フォーカスしたいのはフィールの主戦騎手・滝川正和です。

 

 

 

~ここからW3巻未読の人はネタバレ注意です~

まとめまでワープ

 

 

 

 

 

 

~ゴリゴリに私感・憶測を交えたキャラ解釈なのでその点でも閲覧注意です~

まとめまでワープ

 

 

 

 

 

 

 

W4巻以降の彼に関して、特筆すべきなのが「彼はフィールの相棒であるにも関わらず、フィールの意思決定に関与していない」ということです。家族のような関係だった文太とハヤト、お互い相手がいなければ走れなかったたれ蔵と菅助などを除いて、基本的に騎手はパートナーを複数有しており、調教師や厩務員ほどパートナーと長い時間を共有することはできません。しかし、シリーズ全編において騎手は馬の理解者であり、馬もまた騎手の理解者であるように見受けられます。滝川さんについても、を見て金太の正体を暴いたり、彼なりのフィール像をファムに説いたり、フィールに対する解像度は他の人物よりも高いはずです。有馬の前に二人きりで凱旋門賞への意気込みを語らうあたり、親密な関係であることも伺えます。

 

しかし、1話の表彰式の「フレンチを味わえるだろ?」発言を見るに、凱旋門賞制覇(=強い奴と走りたい)という目標はフィール自身が見つけたものな気もしますし、骨折引退の撤回は(先述の通り)文太に影響されて決めたものです。3冠を取るか凱旋門賞を取るかということも松平社長らに決定権があります。そして、フィールの死すら騎乗ミス等ではなくコースの窪み…偶然によるものです。滝川さんはあくまでフィールの力を引き出し勝利へとエスコートするだけで、彼の人生の岐路に立ち会えていないのではないでしょうか。フィールの理解者でありながら、実際にフィールの行く末を大きく変えたのは文太なのです。なんか自分が相手の一番だと思ってたら違った、ってのはNTRみたいで興奮してきますね

ともかく、滝川さんはフィールの死に(さほど)関与していないように思えます。しかし、W5巻やW19巻で顕著ですが、 フィールの死を最も重く受け止めているように見えて仕方ありません。みんなの期待を裏切れない、と文太達に明かしていますが、それ以上にフィールを憧れの舞台に立たせてあげられなかった=エスコート役を全うできなかったことを負い目に感じている方が近いのではないでしょうか。実際、ダイナの凱旋門賞後のインタビューでは

2年前の挑戦ではフィールをこのレースで走らせてやることすらできませんでした

(中略)今日こうして勝ちましたがフィールに対する申し訳ない気持ちは…変わりません

出典:つの丸たいようのマキバオーW』20巻 P170~171より

と口にしています。つまり、彼を苦しめていたのは喪失の痛みだけでなくフィールとの約束を反故にしてしまった責任感だったのです。そして、これは彼の遺髪を纏った鞭で勝つだけでは贖罪にはならないし、文太やファムのように「結果はどうあれ、やりきる」ことで払拭ができない訳です。先ほど引用したページで酒井さんも言及していますが、彼に科せられた十字架はどうやっても降ろせないし、誰かに肩代わりしてもらうこともできないでしょう。

 

自分が解決するしかないが、解決する手段がない想いという、いちサブキャラらしからぬ重責を背負ったキャラ、それが滝川正和なのではないでしょうか。というか、フィールで始まりダイナに終わる、という点を踏まえると、たいようのマキバオー』はフィールオーライと滝川正和の物語でもある、と私は確信しています。

 

 

 

 

 

 「え?じゃあダイナはフィールの代わり以外の役割無いわけ?」と言われると困るので、ダイナスティと滝川正和の関係についてはまた後日…

 →続きです

 

 

 

終わりに

今回は「『たいよう』は自由意志の尊さと、それに伴う痛みを描いた名作!!!!!」という点を力説しましたが、『たいよう』及びシリーズ全体の良い所はまだまだ語り足りません。フィール絡みの話だけでも、ダイナスティとかリバーサルポイントとか考察していきたいところがあるので、それは次回以降の更新をお待ちください。

 

以前書いた考察記事

zatsuka-etsu.hatenablog.com

この記事の続き

zatsuka-etsu.hatenablog.com

リバーサルポイントについての考察?

zatsuka-etsu.hatenablog.com