焼け跡とみずたまり

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鏡像とディスカバリー――マキバオー感想②

zatsuka-etsu.hatenablog.com

これの続きです。前回あまり触れられなかったダイナスティのことについて書いてみました。

 

 ※前回以上に主観性の強い(BL的文脈を含む)キャラ解釈になることが予想されますので、ご了承ください

 

 

他人を介して見えてくる自分

 

『たいよう』の一つの特徴として、何かとメインキャラが比較されることが挙げられます。劇中で主となっているのはマキバオー世代との比較ですが、より重要なのは同世代間の比較でしょう。言ってしまうと、フィールもアマスピも、ある種文太の鏡像として描かれているよねってことです。フィールは言うに及びませんが、アマスピも2世キャラで地方所属ですから、少なくとも11巻(東京大賞典)あたりまでは「こうだったかもしれない存在」という要素は多分に含まれていたと思います。

 

さて、この説に付け加えたいのが、「フィール・アマスピに限らず、メインライバルは基本文太のもう一つの姿なのではないか?」ということです。無論、完全に一致している訳ではなく、対照性を強調するために共通項を多めにしているのではないか?という推論です。少し表を作ってみました。

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エクセルの使い方が下手なのは不慣れだからです

本編内で類似性を指摘されていた文太・フィール・アマスピ・ムスターはともかく、纏めてみて意外だったのがブロックバスターの存在です。対バスターの話題はハヤトと石田の敵対意識がメインだった訳ですが、文太もバスターもヤネに対する依存度が非常に高いです。ただし、文太のそれと違い「光成でないと走ろうという気が湧かない」という、勝負に対する積極性を欠いているのが特徴です。こういうところはムスターに近いのかもしれません。ビッキーやコブラは「比較とコンプレックス」をテーマにしたキャラなので、文太の比較対象というよりも、文太・アマスピ含めて『たいよう』を象徴する存在なのかなぁと。このテーマに当てはまらないのはロック(とバスター)ぐらいなのではないでしょうか。ベンダバールは、というか殿下の馬は文太とほとんど関連性がないんですよね。たれ蔵のアバターとしての描かれ方が強いですし、最後の凱旋門賞以外の重要度は低い気がします。デカロゴスに至っては文太と対峙すらしないし…

 

話が長くなりましたが、要は「戦いを通じて自分と同じところ・違うところを見つけていくこと」「他人と自分を知ること」が長い『たいよう』の連載の中で描かれた魅力なのでは、ということです。他者の姿から自身を見つめ直し、その成長が他者も変化させていきます。そして、その積み重ねの先にいるのがファムファタールであり、ダイナスティである訳です。

 

 

フィールオーライ」の再発見

 

ダイナスティという存在は、受け継がれてきたバトンの(物語上の)アンカーであり、マキバオーというシリーズを締めくくるためのキャラである訳ですが、それとは別にフィールが築き上げたものは何かを振り返るキャラでもあります。負けず嫌いな性格、文太との出会いといった表面的なフィールとの類似点だけでなく、何がフィールと違うのかを考えることが、ダイナを、そしてフィールを知る手掛かりになるでしょう。

 

ダイナは人々がフィールに望んでいたモノを背負わされていると同時に、フィールが変えた世界の恩恵を存分に受けています。フィールが文太と出会わなければ、彼は骨折で引退し種牡馬となり、松平社長と本多社長の不和も解消されず、ダイナと高知の縁も当然生まれず、コブラ達と出会うこともありませんでした*1。ダイナの成長の陰にはフィールが必ずいます。そして、ダイナはフィールが得られなかったものを全て手に入れていま。三冠を蹴ってでも未知の世界へ挑む権利、緊張感ある古馬との戦い、憧れのカスケードのような走法、凱旋門賞のゴール、自分なりの最後を飾る権利、そして文太と同じ舞台で戦うこと。嫌な言い方をすれば、ダイナの栄光は全てフィールの屍の上に成り立っているのです。ダイナ自身(石川さんらに背負わされたのではなく)背負うしかないと腹をくくっているあたり、自分の弱さに自覚的だったのも頷けます。というか、1歳時点で決意するには重すぎやしないか

 

 

勝ち得た自由

 

では、ダイナはフィールが受けられなかった世界の寵愛をかっさらうためだけのキャラなのか?またNTRじみた文言になったなかと言うと、断じて違います。先述の通り、ダイナスティはシリーズ全体の総決算たる存在です。『みどり』の最終回で描かれたのは、「挑戦し続けた者の血がまた、未来の挑戦者を形作る」ということです。一方で、『たいよう』で何度も強調されるのが「血ではなく魂を受け継ぐ」ことです。要は、ダイナスティはカスケードの血もフィールの想いも、白い一族が培った全てを一身に背負った挑戦者なのです。最終話のサブタイトルも、そういうことなのではないでしょうか。

 

最終話と言えば、ダイナが受け継いだバトンはこれからターフを立つ馬全てに託されたという文太のモノローグ。これはある種マキバオー、そしてカスケードにかけられた呪縛からの解放を象徴するものだと思います。ダイナはこれまでの日本馬の夢を叶え、滝川さんに勝利を与え、自分のやりたいことも全うしました。だから、後の世代に遺すものは何も無いわけです。レックレス達未来の世代を重責から解き放ったことこそが、ダイナスティの最大の功績なのではないでしょうか。つの丸先生の言う、「マキバオーを描き切った」というのは、こういうことなのかなぁと、思います。

 

 

余談・ 「自分」を見つめてくれる人

 

「ダイナとフィールを重ねるな」とコブラは大人たちを叱責しましたが、ちゃんと目の前のダイナを見ていた大人が居た事も見逃せません。滝川さんです。日本のトップジョッキーとして、フィールの「正和さん」として凱旋門賞に私情を持ち込んではいましたが、ダイナとフィールを同一視していたわけではありません。それが如実に表れているのがW19巻・ニエル賞です。

 

別のレースを走る馬とは勝負できん 意識したってしょうがないんだぞ

お前が競うべき相手は今このターフに立つ馬たち

出典:つの丸たいようのマキバオーW』19巻 P46より

W3巻のフォア賞(辛い方は見返さなくても構いません)とは真逆のことを言っています。ダイナの未熟さと眠る才能を見抜いていたから、ダイナは更なる成長を遂げられたのです。

 

以上のことを踏まえて、この曲を聴いてもらって当記事を〆させて頂きます。またしても他IPのモノですが… それでは。

スタァライトも観てくれよな(ステマ

 

 

前回の追記

 

『たいよう』の軸の一つに「ハヤトの中央・菅助へのコンプレックス」があったわけですが、黒船賞、ドバイを経て、菅助をリスペクトできるようになった所がゴールではありません。ハヤトは菅助を理解できるようになったことで、文太を支える手段を見つけ、それが滝川さんの心を救う糸口になったのです。このエピソードもまた、出会いの一つ一つが知らないうちに世界を変えるという『たいよう』のテーマを示しているのでしょう。

 

*1:コブラ自体、再起できず処分されていたかもしれません