焼け跡とみずたまり

牧場王やら色々

今更ながら『たいようのマキバオー』に見えたもの

 スタポケコラボの流れでマキバオー熱が高まり、『みどり』の方も久しぶりに読み返してみた。序盤の展開や両マキバオーの戦績の差などから、『たいよう』の方が重い、もっと言うと陰鬱としていたように見える。が、『みどり』は『みどり』でゲロ重展開だらけだったではないか。その最たるものがエルサレムのバックボーンな訳だが、そのエルサレムの「負けられない理由」の最大のカウンターとなるものこそが、『みどり』のテーマ自身なのだと思う。

 

 

 一度死の苦しみを経験した以上レース“如き”で苦しみはしない、と言い放つエルサレムに対し、意識が朦朧としながらもたれ蔵は叫ぶ。エルサレムにとって生死に関わらない“たかが”レースに、一生をかけてでも戦うことを選んだ者がいたことを、命尽きるまで戦い抜いた者がいたことを自分は知っている、と。

 有馬編もそうだったけれど、「血だけじゃない、魂を受け継ぎ、そして次に繋げていく」ことが『みどり』最大のテーマなのだろう。実際の競馬がそうであるように『マキバオー』世界においても競馬がブラッドスポーツであることを考慮に入れても、これ以上に『みどり』を表せる言葉はないと思える。そして、これはエルサレムの抱く「憧れの名馬の血を継いだ以上必ず勝たねばならない」という信念と対極にあるものだろう。

 

 一方の『たいよう』だが、実はアプローチが違うだけで同じことをテーマにしている気がする(特に『W』後半)。W4巻での「フィールという太陽とそれに照らされるたる文太」という構図は、最終回後にこのテーマを表していたのだとわかる…と勝手に思っている。

 様々な想いをのせ凱旋門賞を制したダイナスティは「フィールになりたいと、フィールを目標にし、ファムや文太から渡された“バトン”をたまたま自分が受け取っただけ」だと語る。数年後、文太に対し「受け取ったバトンを誰に託すべきかわからない」と打ち明ける。結局誰でもない“誰か”にバトンを残してダイナはターフを去り、話は幕を閉じる。

 

 『たいよう』のストーリーは一貫して「太陽となって未来の誰かを照らす」ことにあると思う。

マキバオー達との出逢いで自分が走る新たな意味を見つけたカスケード。

そのカスケードに憧れ、超えんとしたフィール。フィールとの約束のため走る文太。

父や先輩が届かなかった世界一に「何より自分のために」挑んだファムとダイナ。そしてダイナに憧れる未来の名馬たち…

 こう書くとメインキャラを羅列しただけのようだが、例えばダイナは、フィールへの想いを抱えた滝川さんや石川さんら、ビッキーやコブラといった先輩たちなどに支えられて勝利を掴みとった。そんなダイナは自分は特別な存在ではないと言う。

 

 なんかしっちゃかめっちゃかになってきたので、何が言いたいかをまとめると、「誰もが誰かを照らす太陽になれること」が『たいよう』のテーマであり、マキバオーシリーズ全体の総括なのだと思う。私達読者にとって、マキバオーシリーズも間違いなく太陽なのだと、今ならば言える気がする。

 おしまい。